ここは途中なんだって信じたい

うっかりベストハウスを延々見てしまった笑。悪魔6体…ほげーとかおもってたぜ。
えーと、ここ最近何か書きたいとおもいつつ、なかなか書けてなかった震災のこととか。やっぱり1月17日はそのときそのときでも同じことしか思い出さないんだけど家族でああだったねこうだったねって話し合う。神戸新聞の番組もNHKでやっていた『その街のこども』も見たけれど、個人的にいまの自分とその当時への見方が似ている分だけ後者の方がリアリティがあったなあ。
あんまり文章にするのは得意ではないのだけど、たまには書き残しておくのもいいかなとおもうので整理してみる。


わたしは生まれてこのかた神戸を離れたことがなくて、もちろん震災も経験していままで生きてきているわけだけれど、やっぱり積み重なった思いは全然違うというより軽いとおもっている。当時わたしはまだ小学校3年生で、揺れで目が覚めたというよりは親に揺り起こされたなっていうことを覚えている。うちは震源地には限りなく近かったんだけど、地盤の関係でいちばん被害の大きかった地域とはまったくレベルが違っていた。だからわたしの周りに起こった被害はたとえば家の壁にヒビが入ったとか、お父さんの書斎の書類が棚から全部飛び出ちゃったとか、ガスや水道が出なくて不自由したとか、その程度で。つらい、こわい思いもトラウマになるほどのものはまったくない。ただ、その何年かあとに鳥取地震があったとき、少しの揺れでも飛び起きて怖くて眠れなくなって身体にはそういうのが残っているのかもしれないな、とはおもった。実際自分の住んでいる地域は遠くて本当に揺れたのかも定かじゃないけど、同じぐらいの時刻に飛び起きたのは覚えているので。15年前の前日も、その鳥取地震の前日も、月が異様なオレンジ色をしていたことは鮮明に記憶していて、あれって地震の前兆なのかな…と考えたりもしたな。実際そのあとも1,2回そういう色の月は見た気がするけど、特に揺れはなかったから違ったのかとはおもうけど。
15年前のことは、当日よりもそのあとのことの方が記憶に新しい。小学校の校庭や近くのグラウンドへ向かうコンクリートの道が大きく盛り上がって地割れしていたこととか、学校の教室が修復で使えなくなって5つあったクラスを3つに分けてそれぞれ図書室とか違う教室で勉強したこととか、揺れが激しかった地域の子が転校してきたこととか、しょうもないけど給食の牛乳が瓶から紙パックに変わったこととか。近くに仮設住宅ができて、最後の仮設住宅がなくなるのも見ていた。もちろん、自衛隊給水車に兄弟で水をもらいに行っていたことも覚えてる。父親の会社があったビルの父親の会社があった階はぺしゃっと潰れてしまっていて、もし地震が起こったのがもう数時間だけあとだったとしたら、きっとこんな風に思い出したりすることはできていないんだろうなとおもう。
自分が神戸に生まれてずっと神戸で生きてきて、ほかの人と同じような気持ちで15年前を思い返すことができないのにはなんだかもどかしい気持ちもあるんだけれど、そうおもうこともおこがましい気がするし、自分は自分なりに忘れないようにしていきたいとおもっている。当時、もしいまの年齢で震災を経験していたら15年経っておもうこともきっと違っていたんだろうなあとはおもうけど。